プロフィール

はじめまして、円満リレーションシップカウンセラー

きたさわ そらです。


現在、夫婦関係アダルトチルドレン、愛着障害、トラウマ、職場関係、親子関係、毒親育ちなどでお悩みの方へカウンセリングをご提供しています。



私は長い間、我慢とあきらめの対人関係を繰り返してきました。
それはごく幼い頃から父親の言う通りにするよう育てられ、


主体性を極端に制限されて成長したアダルトチルドレンだったからです。


具体的にはアダルトチルドレン、愛着障害、トラウマ、そして毒親育ち(毒親というコトバには私自身は抵抗がありますが)を経験してきました。


ここに、生まれてから現在に至るまでの過程を書かせていただきました。

以下は両親との関係が職場の人間関係、子どもとの関係、夫との関係にいかに影響を与え、苦しみ、そしてどのようにその苦しみから抜け出したのかを記したものです。


私の苦闘の数々が少しでもあなたのお役に立てたら嬉しいです。

目次

有無を言わせない父に怯えていた幼少期



私は自信家で自己主張の強い父と、
100%父の言う通りにする母の元で
2人姉弟の第一子として北海道の片田舎で育ちました。

両親に愛されている感覚は確かにありましたが、
父は声が大きく、よく叩かれたので、
震え上がるほど怖くて、自由にものが言えませんでした。

物心つく前から、
よく「お父さんとお母さん、どっちが好きなんだ?」
と詰問に近い質問をされ、


「どっちも好き」と言うことが許されず、


「はっきりしなさい」と大声で言われると、


「お父さんの方が好き」と言うしかありませんでした。

父は「子どもは余計なことは考えずに親に従っていればいい」
という信念の持ち主で、

小学校に入っても
「生意気なことを言うもんじゃない」と叱られました。

お酒を飲んでも飲まなくても饒舌な父でしたが、


話題は自慢話が多く、
子ども心に「父はすごい人なんだ」と
誇らしかったのを覚えています。

中1で大好きな母と離され寮生活、家に帰りたかった


小学校6年のとき
「地元の中学へは行かず、受験するように」と言われ、


友だちと同じ中学校に行きたくて泣きましたが、
聞き入れてもらえず、


毎週電車で家庭教師の元へ通い、
私立の中学を受験。


親元を離れ、寮で上級生との4人部屋で生活することになりました。

何よりも辛かったのは、母と暮らせなくなったこと。


振り返ってみると、
私は幼少期からずっと母のそばにいたかったのですが、


母はとにかく忙しく、
一日中家にいるのに
ほとんどの時間家事に追われていました。


それは毎晩のように
父の職場の人たちが尋ねてきましたし、

職場に家が隣接していたため
昼食をとりに父が毎日帰宅していたからです。

その上同居していた父方の祖父母も
お風呂の時間など
一度決めたことを厳格に守る人たちでしたので、


母はそれに合わせて家事をこなす必要があり、
本当に大変だったと思います。



今でも思い出すのは
母が長い時間台所に立っていたこと。


そして毎日のように
たくさんの食材をつめた重い袋を下げて
買い物から帰ってきていたこと。


母がゆったり座って
楽しそうに何かをしている、


そんな姿を見たことが
ありませんでした。



父は昼夜を問わず働いていたので、
母はそれを懸命に支えていました。

それでもたまに父に叱られ、
母は泣いていました。

家族の団欒や旅行はほとんどなく、

祖父母や父には
良くも悪くも評価されることが多くて


子ども心にも
「いい子でいなければならない」という緊張感が
ありましたが、


母の前では無防備でいられたので、
ただただ母のそばにいたかった
のですが、


母にはゆったり過ごせる時間はなく、
母への渇望は満たされないまま、


13歳という年齢で
離れて暮らすことになりました。



寮に荷物が運ばれ、
私のものを一緒に整えてくれた母が


弟の手を引いて帰っていく姿を
寮の窓から眺めているとき


母と一緒に帰れる弟が羨ましく
「私も一緒に帰る!」と


母の後を追って背中にすがりつきたくなったのを
はっきりと覚えています。

やりたいことが分からないアダルトチルドレン(10代後半〜20代前半)


そして高校卒業後、私はさらに親元を離れ、
東京の大学に進学しました。

それは当時個人的に教えてもらっていた英語の先生の母校で
先生が送ったような大学生活を送りたいと思ったからです。

結果的にはその大学には合格できませんでしたが、
希望していた他の大学にはどうにか合格できました。


ただ父の勧めで法学部を受験し、
法律にも政治にも全く関心が持てなかった私は、

形ばかり授業に出て、
テストを受けて単位を取り、


卒業しても
特にやりたいことがあるわけでもなく、


ただ皆が受ける会社を受け、
入れた会社で働き、


特に嬉しいこともなければ
格別悲しいこともない日常を過ごしました。


今から考えると、
父の意向を忠実に守って成長した私は、


大人になってもやりたいことが分からない
アダルトチルドレン
でした。


そして不思議なことに怖くて氣難しい父とは離れても、


ゼミや他大学との交流、職場などで縁のある人の中には、
必ず父のように氣難しい人がいました。

優しい人と結婚したはずなのによく機嫌が悪くなる夫



その後同級生の夫と交際、結婚。


父とは全く違うタイプ、
「この人となら楽しくやっていけそう」


と思って結婚したのに、


夫は同級生だったにもかかわらず、結婚後、
私たちは父と母のような夫婦になりました。



夫は仕事のプレッシャーで余裕がないと
ちょっとしたことでよく機嫌が悪くなりました。




怖い父のもとで
父に言われるまま従うよう躾けられた私は、



夫にも従うことしかできませんでした。




「こんなはずじゃなかった」と思っても
それはコトバにはなりませんでした。




徐々に私は
夫はどんなことで機嫌が悪くなるのかを
理解するようになりましたが、



夫は私のつらい思いなど
氣にも止めていたいようでした。



私は「どうせ分かってもらえない」と
あきらめて
暮らすようになりました。



振り返って考えれば
ただ夫に合わせるだけで


いつも平静を装い
不平を言うこともなかったので、


夫は、私が何をすれば悲しみ、
どうすれば喜ぶのかを
知りようもなかったのです。

家計を任せてもらえず、家政婦みたいでみじめだった



いちばん辛かったのは、
家計を任せてもらえなかったこと。

生活費を渡されるだけで、
夫の給料の額も知らず、
緊急の出費は夫に頼み、払ってもらう。

お金は生活の根幹で、
自分は家事全般を担っているのに、

「これじゃあまるで家政婦みたい」と感じて
みじめで情けなかった。



でも争いごとになるのを怖れ、
「家計を任せてほしい」と
切り出す勇気ももてませんでした。

娘が生まれる前
「今でもギリギリの生活なのに、
出産後どこからお金を払えばいいんだろう」


と不安で胸が張り裂けそうになったのを覚えています。


それでも自分が惨めで不幸だとは認めたくなくて


幸せだという顔をして生きていました

「妻は我慢するのが正しい」と信じていた


子どものころ、
祖母と父は数ヶ月に一度
大喧嘩になりました。


口論は数時間に及び、
翌日祖母は起きられなくなり、


母が祖母の枕元に食事を運んでいました。

母はよく言っていました。


「争いごとがなく一日が終わって
夕方お茶碗を洗っていると


『今日一日無事に終わって幸せだなあ』って思うよ」と。



また自分さえ我慢すれば
うまく収まるんだったら


喧嘩で家の中がゴタゴタするより
ずっといい
」とも。

私は母のコトバを思い出しては、


「自分もそうしよう」
「揉め事がないのがいちばんなんだ」
と自分に言い聞かせていました。


また何か問題が起こっても
問題に対処するより
夫に知られて機嫌を損ねることを真っ先に恐れ、


なんとか一人で対処し、
すっかり解決してから報告していました。

それほど「夫の機嫌を損ねない」ことが
第一優先
でした。

たまに機嫌を損ねることがあっても
こちらから反論することは一切ないので、


家庭が荒れることはなく、
夫の氣が収まれば
とりあえず家庭は平和に戻りました。


私は
「これでいいんだ」と胸を撫で下ろしました。

欲しいものは買えても満たされない心


結婚して6年後、
夫の赴任先である海外での暮らしが始まりました。


私は現地の言葉を習いながら
困らないように生きていく術を学びました。



いざ暮らしてみると
日本人同士の交流は盛んで、


現地の人から語学を習うことも、
そのコトバを使って生活することも新鮮でした。

また赴任先はアジアだったので、
ものが安く買えるようになったことは
とてもありがたかった。

日本では買いたくても
たいていはあきらめていたので、


欲しいと思ったら迷わず買えるというだけで、
本当に氣がラクになりましたし、


溜まっていた欲求を満たすこともできました。

ただ物欲は満たせても
何かが欠けている感覚は付き纏い


私はそれを自己実現という形で埋めようと、
仕事を見つけ働こうとしましたが、


夫の会社の規定で
それは許されませんでした。

そして6年後に帰国し、
夫の勧めもあって教員免許を取り、
教員になりました。


特に教師という仕事に思い入れが
あったわけではありませんでしたが、


仕事はやりがいがあり、
生徒のためにと思うと
授業の準備にも熱が入りました。


また初めて自分で稼げたことで、


以前よりは言いたいことが
言えるようにもなりました。

教員として感情が抑えられない中学生たちに出会う


英語の教員として数年働いたのち、
勧められて採用試験を受け、
ある中学校への配属が決まりました。




配属が決まって初めて校長室を訪れたとき、
これからは英語ではなく、


情緒障がい(ADHDや自閉スペクトラム症)の中学生の指導を
マンツーマンで行うように言われたときは
ショックで言葉も出ませんでした。


ですがそれはまさしく天の采配で、
私に必要だったから起こったことでした。


担当した中学生たちは
氣持ちのコントロールが難しく、

クラスで度々問題を起こしていました。


不意に教室を飛び出したり、
友だちに怒りをぶつけたりするのです。


「授業時間は席に座っているんだよ」


「静かにして授業を聞かなければならないよ」


外から型に嵌めようとする指導方法が
通用しない
ことがしばしば。


またどんなに

「静かに座っていられたら、
みんなも授業が聞けるし、
〇〇君だって授業の内容がよく分かるでしょ」

とか、


「友だちが傷つくようなことを言わなければ
仲の良い友だちだってできていくんだよ」


と理屈で諭しても、


一旦吹き出した感情はどうすることもできませんでした。


私はなんとかして彼らの役に立ちたいと、
解決法を探し求めました。

感情を扱う心理スキルの凄さにあっと驚く


そしてこのことがきっかけで
私は生まれて初めて感情というものに
目を向ける
ようになりました。


それは生徒の話に耳を傾ければ傾けるほど、
「感情さえ静まれば、なんとかなるのに」と
考えるようになったからです。


そこで感情を扱う心理スキルを学ぼうと
自腹を切ってセミナーに通い、


何十冊もの本を読み漁り、


自分への実験を繰り返しました。

そしてとうとう
じかに感情を和らげたり、


感情を湧き立たせる原因を
突き止めたりできるようになりました。


セミナーで教わったワークを
何度も練習して、自分に試し、


初めて全身がフワッとゆるんで
つらい感情が消えた
ときには


思わず「あっ」と声をあげ、



何かものすごいヒミツを手に入れたように感じて、


「これさえあれば、
生徒はもう大丈夫、やっていける」
と確信しました。

中学生も心理スキルを使って問題を解決


それからというもの、
私は生徒から苦しい胸の内を明かされるたび、


生徒と一緒に彼らの感情に向き合いました。

氣持ちがうまく言えない生徒には、

線や色を使って氣持ちを表現してもらい、
描いたものを見ながら
感情にピッタリのコトバを突き止め、
感情を和らげていきました。


生徒と一緒にいられる時間は
限られていたので、


教室に戻ったとき
彼らが自分で感情を解消できるよう


解消に至る過程を
できるだけシンプルにして
習得してもらうようにしました。


方法も一つではなく
時と場所に合った方法で
解消できるようにも工夫しました。


そうしているうちに生徒たちは
自分でも感情を和らげられる
ようになりました。


さらに感情を湧き立たせている原因である
彼らの不満も突き止め、
コトバにしていくと、

彼らははっきりと自分の不満を認識し、


コトバになっている不満は
相手に伝えやすく、


また自分の不満を認識することで
その不満を解決しようと


彼らなりに行動するようになっていったのです。


感情を扱う心理スキルで
問題は激減し、


論理的に説得する解決法とは
明らかに次元の違う結果
を生み出しました。

心理スキルで職場の人間関係も瞬く間にスッキリ解決



生徒の問題解決に奔走する傍ら、
私は自分の感情にも向き合いました。

というのは、
当時職場で上司と同僚の2人からの
パワハラに遭って苦しかったからです。

特に同僚からは
2人だけになると
毎日のように欠点や落ち度を指摘され、

落ち込む日々が続いていました。


そこで私は退勤後、
校門を出てから駅に着くまでの7、8分間
溢れ出る感情をひたすら受け容れ解消するようにしました。

するとその短い時間のうちに
氣持ちは和らぎ、


電車に乗るころには
職場での嫌なできごとは遠のき、


晩御飯の献立や家の片付けなど
別のことに思考が向かいました。


「感情が和らぐと
考える内容も変わっていく」

と感情と思考の関連性にも
氣づくようになりました。

それまでは家に帰っても
職場での出来事を引きずって
悶々としていたのに、


それはそれはものすごい変わりようで、
私は心理スキルの圧倒的な効果に
改めて驚かずにはいられませんでした。

そして私の内面の変化を
外の世界が察知したかのように上司は転勤。


同僚も私を避けるようになり、
職場は一変して心地いいものに変わったのです。


苦手なふたりが立て続けに離れていったことで、

私は「心の状態と人間関係は連動する」と
確信
するようになりました。

多くの女性に役立ちたいと独立起業

その後私はあらゆる人間関係を解決してお役に立ちたいと
独立開業しました。


それは生徒のお母様とのやりとりを通して


もっと多くの人、
特に女性にこの心理スキルを
お伝えしたい
と強く思うようになったからです。



それはこれまで出会ってきた多くのお母様が、夫や子ども、両親のために全エネルギーを使い果たし、
ご自身のために生きられていないと切に感じるようになったからです。


お客様には、


すぐに怒鳴り散らす夫に
「まるで地雷を踏むかのよう」
夫に怯えて暮らしていた方、


職場の同僚との関係に苦しんでいた方


威圧的な上司からの要請を
断れずに困っていた方、



長男が巣立ち空の巣症候群に陥り
どうやって生きていいか分からなくなった方、



引きこもりの娘に心を悩ませているお母様など
これまで様々な方



様々なお悩みに
寄り添わせていただいていますが、


感情を受け容れ、
紐解いていくことで
どんな問題も解決
に向かいました。

娘に「虐待された」と言われ、衝撃を受ける


つらい氣持ちの対処法を知り、
穏やかな日常を送れるようになった矢先、


娘が帰省中に夫と口論になり、
自分が幼少期から虐待を受け
どれほど辛かったかを訴えてきました。


私は【虐待】という強烈なコトバに
衝撃を受けました。

その後、
「子どもの前で父親が母親を怒鳴るようなことも
虐待に当たる」ことを知り、


「お父さんが大声をあげていると
怖くて眠れなかった」


「お母さんがどうにかなりそうで
心配だった」


というコトバに
胸を掻きむしられる思いがしました。


夫とのことは単純に夫婦の問題と
捉えていましたが、


私の知らないところで
子どもたちは傷つき、


長い間それを引きずっていた
事実に愕然とし、


申し訳ない思いでいっぱいになりました。


考えてみれば
それは当然のことだったのですね。


私たちへの怒りをぶつけて出ていった娘は
音信不通になり、
連絡も取れなくなりました。

ただこちらから送ったものが
送り返されてこないことで
無事を知る状態が数ヶ月続きました。




私は娘の無事を祈りながら
自分と向き合い、


夫の言いなりに生きるしかない
情けない母親だった自分を受け容れ、
許していきました。


その後娘は再び帰省し、
それまで心配をかけたことを
謝ってきてくれましたが、

それでも帰省するたびに
幼かったころにされたことを
繰り返し指摘してくるようになりました。

「こちらが悪かったんだから」と
娘にはその都度謝り、


いつも娘の要望を聞き入れていましたが、


それも自分の感情に向き合ううちに
違和感を覚えるようになり、


娘には
もうこれ以上は非難しないでほしいこと、


娘の要望にも
いつも応えられるわけではないことを
率直に伝えました。



それは親子といえども
自分が無理なく自然体でいられるよう


自分の心の敷地を守る必要があることを
知ったからです。

娘の自立に繋がった心の境界線


以前の私だったら、
「子どものことは
全て自分の責任」と


感情を無視し、
罪悪感から

全てを丸く収めようとあたふたして
疲れ切っていたかもしれません。

ですが、そのときにはもう
心理スキルを使って
自分の感情・感覚としっかり繋がれるようになっていました。



辛かった過去を紐解いていくと


思考による解決法しか知らなかった
あの時の自分の苦しみがよみがえってきました。


そしてあの時はあの時で
最善だと思えることを
やっていたと感じました。

また自分が自分の考えを持てない
アダルトチルドレンとして成長した
こと、


多くの行動が、
「こうでなければならない」という
両親からの刷り込みの上に成り立っていた
ことを思い起こし、


たとえそれがどんなに幸せから程遠い
生き方であったとしても


あのときはあ〜生きるしかなかった、


そんな自分を責めても
何の解決にもならない、


むしろ害でしかない

感じられるようになったのです。


自分がアダルトチルドレンだったと知ることは、


親からの多大な影響下で
自分には他に選択肢がなかったこと。


つまり気づくまでの多くの言動が
「自分のせいではなかった」
という事実に気づかせてくれ


自己否定感や自責の念を緩めてくれました。


私はそのことを
率直に娘に伝えました。


そして自分の心の境界線を守ることは
娘が自分で立ち直る力を
信頼することにつながりました。


娘は非難を止め、
自分の人生にフォーカスするようになりました。

夫に言いたいことが言える自分に


自分の感情に氣づくようになると、


それまでの夫との生活がどれほど感情を無視した我慢とあきらめの生活だったのかを改めて思い知ることになりました。


そして苦しくなる度、
自分の感情に対峙しました。


しっかり受け止め
和らげるだけでなく、


感情の奥に潜んでいる自分の願いや不満も
毎日確認する
ようになりました。

するとそれまで
満たされてこなかった思いは
次から次へと顔を出し、

それを夫に伝えずにはいられなくなったのです。

私はそれを上手に伝える
コミュニケーションの方法も学びながら、


丁寧に夫に伝えていきました。



そして夫と本当の意味で
理解し理解される関係になっていきました。

ありのままを受け入れてくれる夫の存在



こちらの心が変われば、
それに合わせて事態はどんどん動き出します。




たとえ20年以上もの間
我慢と諦めの生活をしてきても、


一旦感情にしっかり向き合うと
外の世界はそれに合わせて着実に変わっていきました。



そしてそれまでの生活が
まるでうそだったかのように、


私を大切にしてくれる夫が
そこにいました。




ある日夫が、


「こんなふうに幸せになるとは思わなかった」



「自分ほど幸せな人間はいないと思う」と
言ったとき、


私は飛び上がって驚きました。



なぜって夫は
いつも不幸の代表のような顔をして生きていたので。



そして私も幸せを感じていました。


そのままの自分でいられて
それを優しく受け容れてくれる



かけがえのない夫の存在に
日々感謝せずにはいられなくなっていました。

我慢とあきらめの関係を終わらせる円満リレーションシップカウンセラー


記憶を辿ってみると
「いい子でいなければ愛してもらえない」


と意識して考えるようになったのは、
小学校4年生のときでした。


その後40年間にもわたって、
私は自分の幸せのためでも
願いを叶えるためでもなく、


人からよく思われるための
そしてその場がうまく収まるための
我慢と諦めの人生
を送っていました。



アダルトチルドレンとして生きることは、
ごくごく幼いうちに始まり、


そうと氣づかなければ一生、
幸せのために生きられずに


我慢とあきらめのうちに
今生を終えることになります。




本当は不満を解消し
願いを実現して生きられる
のに


それは本当に勿体ないことです。



ぜひ一日でも早く
自然体で心地よく生きられるあなたに
なっていただきたいと思います。


カウンセラーとして、
これまでの私の経験を
ぜひ役立てていただきたいと心の底から願っています。

現在、アダルトチルドレン、愛着障害、トラウマ、職場関係、親子関係、毒親育ち、夫婦関係などでお悩みの方へカウンセリングをご提供しています。

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